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心理学化する社会 なぜ、トラウマと癒しが求められるのか




心理学化する社会 なぜ、トラウマと癒しが求められるのか
斎藤環(PHP研究所・2003)









 ひきこもりの数は日本で100万人(!)ということにした張本人、斎藤環の最新刊。「心という存在」を実体化しつつ操作しようという傾向を「社会の心理学化」と呼び、そこからトラウマ論やカウンセリングブームについて論じるのが本書。

 本人もあとがきなどで認めている通り、彼が言う心理学化を促進した主犯の一人が斎藤氏本人なわけですよね?自ら一役かった心理学化について、また「心の見地」から語るんだろう、そのオマヌケさ、マッチポンプぶりをメタメタに語ってやろう!(ダジャレです)と思ったら、意外や意外。思った以上に大人しい。ADHD診断でむやみに処方されるリタリンを問題にしていたりして、ちゃんとしたところもあるのよ、彼。小沢牧子に対する批判なんかにも同意するところあるし。はは、期待をはずされちゃった。

 ところが『終章 「心理学化」はいかにして起こったか』からが俄然おもしろくなってくる。つまりトビが多くなる。この人のやり口はいつも同じ。曖昧に定義したキータームと最近起こった事件や文化事象の紹介文をペタペタつなげて時代の病を語ってみせるってもの。要は香山さんちのリカちゃんと同じってことね。

 曖昧な用語、その一例を挙げると、『「媒介する/される」ことへの欲望』ってタームがそう。斎藤に言わせると写真という便利な道具があるのにわざわざ写実的な絵画を見たくなるのも、ホームビデオを撮影したがるのも、心理学で「人格類型」を作りたくなるのも、人間にこの欲望があるからなんだって。「え!?全然違うことじゃん!」って思うでしょ?「その欲望っていうのはどういう欲望よ!?」とも。斎藤によれば「媒介する/される」欲望っていうのは『ある対象を別の文脈に置き直したい、という欲望』(p.189)なんだって。上の定義に出てくる「文脈」って言葉を適当なところまで拡張すれば、そりゃ何でも言えるでしょうね。トリビアルだけど。前世紀にポパーが「フロイト理論はなんでも説明できちゃうからおかしい!」って主張したけど、それから全く進歩がないんだよ、この人は。

 斎藤の常套手段は他にもある。フリだけのエクスキューズと確信犯アピールがそれ。あれだけテレビに出て精神分析的見地からコメントしまくり、挙句の果てにはひきこもりの数は100万人なんてメチャクチャ言ってるヤツが、どのツラ下げて「心理学化」を批判できるんだろう。これはフツーに考えてもおかしいけれど、これに対する彼の応答はラモーンズ並みにワンパターン。まず『それに僕自身、「心理学ブーム」の片棒を担ぎ、あるいはその恩恵に浴していると批判されても否定しきれるものではないだろう』(p.8)とかなんとか適当に言い訳する。そんでもって『私はマスコミに向けて、あえて精神分析的言辞を弄することで、人々に眉に唾してもらいたいと思っているんです』(p.220)と、自分は確信犯であることをアピールする。批判は重々承りますが、よかれと思ってやったんです・・・というわけだ。

 トリビアルな話で時代の物語を紡ぐってのは、何も斎藤の発明でもなんでもなくて、要は精神分析の十八番だ。そうした時代や私のポップサイコロジー/心語りは、ホントしょーもないのになぜか一定の支持を得てしまう。ぼくはこうした社会の振る舞いをこそ、心理学化とでも呼ぶんなら呼びたいけど、なぜこんなんなっちゃったのか説明するために、ポップサイコロジーも心語りも必要ないと思う。要は心理学で言うバーナム効果と、ギデンズの言うモダン社会の再帰性のおかげなんじゃないの?それがたとえどんなにトリビアルなことでも、自分(や自分の生きる時代)について言及されたものだと「結構当たってるかも」と人間は思いがちだし、情報が高速で伝達されてしまう現代においては、予言の自己成就が起こりやすい。A:「おまえは〜と思ってるんだ!」→B:「あ、そうかも」→A’:「やっぱりみんなそう思ってる」、ただ単にこのサイクルの繰り返しなんよ。

 精神分析という技法では、個人を治療することはできるかもしれないが、社会を治療することはまず無理だと思う(一体どうやればいいんだ?)。そして精神分析が、個人や社会を分析することはなおさら不可能だと思う。なぜなら精神分析にはストーリーテリングの才能はあっても、事象を厳密に論じ、分析するためのツールがほとんどないからだ。時代の病を作り、語り、広げていく。そうした営みはほとんどムダだけど、これからも広く受け入れられていくだろう。それは人間の心に根強くあるバイアスと、素早い情報伝達を可能にした科学技術のおかげなのだ。

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 最初にいくつか注意。ぼくは精神分析の治療としての効果についてはほとんど知らないし、したがって、それが全く無効であるとは考えてません。そうした治療を必要としている人もいるだろうと思ってます。問題はこれで社会を改善するためにはかなりのリスクとコストがかかるだろうなってことですね(失敗すると病気深くしちゃうだけなんだよ)。そして、斎藤も自ら認めるように、精神分析は科学ではない、それは治療のための技法なのだから、世の中をスパっと切る、分析するのには向いてないと思うんですよ。斎藤という1サンプルだけから、上のように論じるのは飛躍かもしらんが、おそらくそうだと思う。

 それと、人の心や信念について語る研究すべてを不毛だとは考えてません。というより、社会科学の性格上、それは必要なことであるとさえ考えています。ウェーバーの理解社会学の試みや、社会意識研究は有意義でしょう。だけど、それをするためには、ウェーバーもしたように、精確な研究がなされる必要がある。これが精神分析には無理なんですよ。なんてったってひきこもり100万人とか言っちゃう人には無理でしょう。そういうわけ。

 斎藤環はひどいですからね。結局、「心理学化」という概念も、脳ブームとかまで含めちゃってたり、心から語れば何でも心理学化ってな感じで、何を指す概念なのか曖昧。要は科学知識が一般に流通する過程で変容していく・・・で、みんな自分改善にそれ使いたいってだけですから、脳ブームは。丹治信治さんが「自然化の進行」みたいなこと言ってたけど、こっちの方がハッキリしてるし、わかりやすいし、的確な表現だなと。心理学化という概念は「チープな精神分析理論やトラウマ話が受け入れられていく過程を指す現象」という風にでも限定した方が使いやすいと思うな。

 ちなみに、この斎藤環さん、深夜NHKで人間講座みたいなのやってるんだけど、第一回からエヴァンゲリオンや古谷実を挙げて、それが受け入れられるような時代の気分なんだ・・・ってな語りを見せてるわけですよ。これこそ心理学化ってヤツであって、それは別に今に始まったことじゃないんじゃないの?って思う。はいはい、どうせ確信犯だって言うんでしょ。バカじゃない?

 さらに言えば、ひきこもり系と自分探し系って分類もトリビアルだし、ひどいと思うな。以前紹介したけど、山形さんを症例扱いってのもひどかった。この人の本はもういいや。読みたい人は読んでみてください。ぼくは後半ふきだしちゃいました。

 巻末の対談で宮崎哲哉が「厄介なことに、社会の心理学化は人々の「私探し」への志向を助長する一方で、何事も「私のせいじゃない」とする、まったく相反した症候を正当化してしまったのです。」って言ってるけど、おそらくほんとはこういう風に使うタームなんでしょ、心理学化って。



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