叩かれる女たち―テクスチュアル・ハラスメントとは何か  長谷川清美(廣済堂出版・2002)




 小谷真理と山形浩生の民事裁判、いわゆるオルタ裁判の話題を中心に、テクスト上での女性差別問題=いわゆるテクハラについて考察する一冊。オルタ裁判の背景説明、そもそもテクハラとは何かを述べる一章、女性議員のメディア表出のされ方について考察する2章、斎藤環、上野千鶴子、小谷マリ、北原みのりを迎えての座談会を収録した3章ってのが、その内容。

 さてさて。なあーんも知らん人のためにオルタ裁判の概要をまず軽く説明しとくね。小谷真理っていうSFとかの評論をやってる人がいて、まあ『聖母エヴァンゲリオン』とか、なんかそういう本を書いているんだけど、この人を取り上げて、翻訳家・著述家、その他なんかいろいろやってる山形が、オルタカルチャーって雑誌で『小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知の事実』『いま出ているSFマガジンの書評欄で、評者どもが一様にほめているのが小谷真理という男の『聖母エヴァンゲリオン』で・・・』などと書いたのが事件の発端、3000万円と雑誌のぶち抜き謝罪文を、メディアワークス社、主婦の友社、山形に対して小谷が要求、名誉毀損を訴え、4年の裁判の末、ようやく小谷の勝訴で終わった、その一連の裁判を俗にオルタ裁判というみたいです。・・・ふう。疲れた。

 山形氏の翻訳や著書については既に何冊かここでも紹介しました。ぼくは彼の出す本を毎回楽しく読ませていただいている、まあ、ゲスないい方しちゃうと、ファンなわけで、実際彼の言ってること、態度には多くを学ばせていただいておるものです。

 一方、私は自分のHPでも男フェミを自称しているのにヤブサカではない人間で、そんじょそこらの人よりはフェミの著作は読んでる、フェミニズムシンパなわけです(こんなこといったら、上野さんに怒られるけどね)。

 つまりさ、ぼくは山形愛読者のフェミニストっていう、結構レアな人間みたいなんだよ。で、オルタ裁判とその後のオンライン・オフラインでのやり合いは、まあ、なんていうか、噛み合いをまったく見せぬ、歯に衣着せぬ、お互いの罵倒も含んだものなわけです。こんなぼくが、この裁判と関連テキストにどういう考えを持っているのか、ちょっぴり気にはなりませぬか?そこで、この評ではそういったことに関して書いてみたいと思います。前置き長くなったけど、よろしくお付き合いのほど。

 まず山形の記事、小谷に対する不当な記述であったことは明らかだと思う。その点は山形も認めている(と思う。小谷はこの点に関しても「反省してない」と見てるけど)。問題はこれがテクハラかどうかってことなんだけど・・・。

 ぼくはね、これはテクハラだと考えます。で、テクハラはやっぱりよろしくないと。誰であれ自分の作品を他人のものであると言われれば傷つくだろうし、それが山形のような悪意ある書き手によるものならなおさらだ。で、こうした「本当は他人の作品」だと言われるケースは、女性に多く当てはまるし、作品に対して性別上の評価を受ける(「女とは思えない論理的な書き口だ」とかね)ことは、現代の社会では女性に対してより多くマイナスに働くことが多いだろう。これは性差別だと思う。こうした性差別は問題にしていくべきだし、みんなで考えていかなきゃいけない。要するに、基本としての小谷、フェミサイドの主張にはぼくは同意するってこと。

 そもそも山形はフェミに関してまったく理解がないといっていい。フェミニズム批評はつまらんと豪語する山形だけど、エレイン・ショーウォルターとか読んだことないんじゃないか。別に、読んでないから悪いとかじゃないけど、読んでみればフェミ批評、フェミ文学の研究の有意義さに気づくと思うんだが(なかったらわからんようなことがいっぱいわかった)。個人的に小谷のような評論はぼくもダイキライだし、ちっともおもしろいとは思わない。けど、それが理由でフェミ批評じたいが悪いってことにはならない(現在うまくいってるか的な話はおいといて)。他の問題ではかなり調べものをして書く人のように、山形氏は思えるんだけど、なぜここではフェミについてもう少し勉強しようと思わないんだろう。インチキくさい研究が多いのはぼくも認めるけど、もうちっと知っておいたほうがいいんでないの?

 あと、彼のふざけぐせが、この時ばかりは裏目裏目に出ちゃってる。HPのテキストで冗談爆発だし(自分の意見を暗号化してHPに掲載・・・ってまことしやかに書いてあるけど、ジョークらしい。その前の文体からしてオフザケ・モードバリバリで書いてるのはわかるんだが・・・これはちと行き過ぎ。)、そもそもの発端からして「ジョークでした」っていってるんだけど、相手としっかり議論しようと思ったら、ある一定水準の真剣さ、誠実さは必要不可欠だと思う。ジョークだとわかりにくいジョーク、場をわきまえないジョーク、やりすぎは、はっきりいっておもしろくないぞ。最初からダメと決め付けるが、そこにロジックがない。そこが彼らしくない。

 山形氏は和解を狙っていたらしい。だったら戦略的に考えても、不必要な挑発、度をこすジョークはうまくない。実際、何をそこまで怒る必要があったのか。もっと冷静にやればよかった。小谷の方も、裁判でテクハラだというよりは、事実誤認による名誉毀損だけをまず訴えて、その後きっちり物書いて落とし前をつけるって方が戦略的にうまかったのでは?と思ってしまう(この逆風の中では)。今回のケンカは相手が悪いと思うのだ。だって、そうでしょ?絶対かみ合わないし、相手の方が支持者多いよ。逆風でさらにケンカを売る、その戦略性のなさ、よく言えば真摯さ・マジメさがフェミのイメージを悪くもするし、実際の改革につながってない。反発をあおっただけ。「私は傷ついた」というのなら、それはわかるのだけど。

 基本的にフェミニズムの論点に賛成しながらも、彼女たちの戦略性のなさ、ロジックのいい加減さに辟易するばかり。相手を悪者として非難する、その独特のやり口はもう限界にきていると思う。一方、山形の方にもたいしたロジックはない(ハッキリいって屁理屈だ)。相手に対する文句・オフザケに終始してばかり。これは不毛だよ。

 ぼくはフェミ共感+山形的な戦略センス(今回は失敗だったけど)って線を目指したいけど、そんな人ってぼくだけ?

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 ハッキリいってぼくは、山形、小谷、それからこの本で対談してる上野、斎藤みんなを「ダメだな」って思ったってのが、一連のテキストを追う過程で見えてきたことでした。

 まず山形。↓は彼のサイトに掲載してある長谷川と山形のメール取材の一部なのだが・・・。

 長谷川:なるほど、「社会的でない差別など存在しない」、確かにそうだと思います。 ただ集団に対する先入観は、その集団に属するの成員の共通特性に対する「評価」> がなければ形成されないと思います。そしてその集団に属さない人が、その集団を 「評価」する上で大きく作用してくるのが、社会的な規範なのではないでしょうか 。つまり個人に刷り込まれた社会的規範が先入観だと私は考えます。ではその社会 的規範は一体どのようにしてつくられるのか。それはその社会の教育、政治、文化 、あるいは優勢とされるイデオロギーに依拠している様に思います。

山形:ここでおっしゃっていることが堂々巡りになっていることにはお気づきでしょうか。

1)先入観は評価がないと存在しない。
2)評価は規範によってつくられる
3)社会的規範が先入観となる

したがってあまり意味のある文じゃないです。結局なにをおっしゃりたいのでしょうか。差別が社会的に優勢とされるイデオロギーから出てくるというだけなら、ぼくが前回までにお話しした差別に対する考えかたと、ほとんど同じだと思います。(以下略)

 ↑で山形クンは論理的な堂々巡り(循環)と、因果的な堂々巡りを混同しとるわな。規範だとか評価だとかが何を意味するのかを別にすれば「あまり意味のある文じゃない」ってことはないとおもうけど?むしろ、社会化とか、再生産ってタームで言われる社会学のオーソドックスな問題なんじゃないの?あんまり悪意で他人を捻じ曲げようとするあまり、自分の論理が曲がっちゃたみたいだけど。こういった論法がおかしければ、ギデンズの言うこともおかしいってことになると思うけど、山形クンはギデンズ結構評価してたんじゃなかったっけ?ってか、こんなこと言われたら長谷川クンもちゃんと反論しろよなー。だぁからなめられるんだよ。

 まあ、次は小谷くんいっとく?彼女の一番ひどいのは人身攻撃と自己矛盾。あまりにも多い。一個だけ例あげとくけど、彼女は山形クンの人間性についてボロクソいうわけよ。幼稚園児だとかバカだとか。挙句の果てには・・・

小谷:私はあまり世代論はやりたくないけど、世代的なものもあるような気がする。さっき「バブルバカジェネレーション」って言ったけど、バブルの時代に育って、それでずっとエリートできていると思うんですね。その上昇志向には終わりがないじゃないですか。でも、バブルが終わっちゃったら、どうしても終わりにせざるを得ないにもかかわらず、もう感情的についていけなくなっちゃっている。そういうのを社会的な逸脱者とか被差別者にぶつけちゃう。

 まず、世代論やりたくないならやらなきゃいいのに。しかも、つまんない&いけてない(死語)なネーミングでバブルバカ?人身攻撃を非難する、その口調、論じ方がそもそも人身攻撃。はい矛盾。勝手な精神分析、テキスト批評をやるのはいいけど、絶対そんなん説得力ないよ。そもそも山形クンと同じ土俵に立ちたいの?この座談会は、あなたが批判するムラ意識的なコミュニケーションの典型例だということをあなた自身が、ここで証明してどうするの?

 北原みのりクンや斎藤環クンも同じように、山形氏を病気の症例扱いしたり、やれ文章読んでると文体にむかつくだとか言いたい放題。なんでむかつくのかというと、どうやら彼の口/手の悪さかららしい。悪口を悪口で返しちゃ、同じ穴の狢だってことになぜ気づかないのだあ?

 斎藤クンは病気でもない人を「症例」扱いして、本当の病気で一生懸命治療に励んでいる患者に悪いとか思わないの?で、山形クンを病気扱いする理由が、「ルサンチマンの塊だから」って、そんな風に他人を引き下げようとするあなたのルサンチマンは、さらにすごいですよ。

斎藤:・・・略・・・ルサンチマン的なものは僕も含めて持っているだろうし。ただ、僕はそれを隠蔽する。

 いや、もろ出てますぜ。

斎藤:今はキャラクターが面白ければ、受け入れられてしまう(笑)

 って、おまえが言うな(笑)!思わずツッコンでしまうじゃないかあ。

 この他にも斎藤クンは山形氏の論調をソーカルのやり口と味噌クソ一緒にしてしまうし、ソーカルの本読んでないのバレバレだし、やりたい放題。誰かこいつ止めてあげて。

 ・・・・・疲れてきたので(疲れてきたでしょうし)この辺にしますが、もちっとまともに論じあえないの?まあ、そもそも裁判で争ったくらいだから無理といえば無理だけど、山形氏にも少し幻滅しました。もちっと誠意を見せたらんかい。



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