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「不自由」論――「何でも自己決定」の限界




「不自由」論――「何でも自己決定」の限界  仲本昌樹(ちくま新書・2003年9月)










 自己決定―最近、巷でよく聞くコトバだ。でも、そうした「決定」をするときの「自己」って何?昨今のゆとり教育談義などを聞いていると、すぐ「子どもの主体性に任せて」だとか「自己決定して生きていける力を養わせよう」だとか、そういう物言いが出てくる。でも、それってなんかインチキくさい。主体性だとか、自己決定だとか、なんかとってもよいコトバのように思えるけど、「あなたが決めてください」「あなたの主体性に任せます」って言い方には、結局のところぼくらほっぽらかされているだけなんじゃないの?こっちに責任がなすりつけられてるだけなんじゃないの?という疑念も浮かぶ。そこにある種の息苦しさを感じるのも事実なのだ。そもそも、こうした考え方に問題はないわけ?(1)

 書店に行くと、ムズカシそうな思想書の類いがかなりの数出版されている。入門書もあるから、いろいろ読んではみるんだけど、難しい用語の解説などはなされていても、一番大事なところがよくわからない。つまり、「結局、何が問題にしたいわけ?」ってことがわからない。脱構築、差異のポリティクス、ポストコロニアリズム、こういった言葉は一体何のためにあるの?(2)

 (1)(2)のような疑問を持っている方に本書をおすすめしたいなあ。現代思想(と一般に呼ばれているもの)の根っこに対する理解が深まると同時に、医療におけるインフォームドコンセントや、教育改革といったアクチュアルなテーマについても、新たな見方が得られること請け合いだよ。

 現代思想の入門書とかって、入門書なのに、一見さんお断りな雰囲気をもっているものばかりなんだよね。著者が自分の思想的革新性にナルシスティックに浸ってたり、衒学趣味を持ってたりしてて、派手なこと書いてあるけど、読みにくいし、したがって理解しにくい、そうした本は多い。

 それに比べれば、本書はとっても地味。著者も言うように「派手」な結論はほとんど見当たらない。とりあげる思想家も、フーコーやラカン、クリステヴァといったこの手の本を読むと必ず出てくるような「花形」ではなく、アーレントやハーバマス、アドルノなどといった比較的「地味」な思想家が多い。他の現代思想本をいろいろと読んできた人からすれば、読んでいて論旨がどことなく煮え切らないといった印象も受けるんじゃないか。

 でも、そこを評価したいなあ。この人、現代思想としっかり距離をおいて、地に足をつけて考えてる。すぐに「反近代」だとか「ポスト近代」だとかスローガンを振り回す人、オールオアナッシングでモノを考える人、時代が変われば言うことも変わるという人とは一味違うの。その冷静で地道なスタンスが、とてもいい。

 いや、ちょっと齧ったことがある人ならわかると思うけれど、もうほんとそういう人ばっかりなんだよ、この世界は。そのせいで「現代思想は全部ゴミ」ってなまた別種のオールオアナッシングが流通してしまってるし、その手の雑誌、論文集は性急なもしくはかっこつけの左翼野郎のための、サークル誌みたいになっちゃってんの。こういう人がもっといてくれたらなあ、出てきてくれたらなあと、ぼくは強く思っていました。

 現代思想の解説においても、難しい言葉をできるだけ使わないようにという配慮が見られるし、そもそもあまり用語の解説をすることに重点を置いてはいない。「私は××研究者です」(××の中にはアーレントとかフーコーとか思想家の名前が入る)といった自己紹介を嫌う著者らしく、あくまで(1)の問題を中心にして、必要な範囲で各思想家に触れているから、見取り図がすっきりしていて不必要なわかりにくさがない。特に出色はハンナ・アーレントに触れた箇所で、ぼくはこれを読んでアーレント思想についてかなりすっきりした理解を得られたよ。

 ぼくにはあまり馴染みのない思想家をとりあげているけれど、著者の主張には同意するところも多かった。たとえば、自発性、主体性という言葉は、なんに対しての自発性、主体性なのかを言わなければ、空疎な主張になってしまうといった指摘(P.13)や、あとがき中の以下の箇所などには強く同意するなあ。

 「筆者の印象では、「実践!」とか「対抗機軸!とか言いたがる人は、お祭り的なイベントで、周りの人に受けそうなプログラム的なマニフェストを打ち出すのはうまいが、具体的な「状況」を改善するための行動になるとグズであることが多い。これは逆ではないかと思う。「自分が何を求めている」のかも分からないのに、「世界」を「解釈」したり「変革」するための戦略がすぐに見つかるはずはない。自分がその都度遭遇する「状況」の中で、とりあえず行動してみて、その帰結を原理的な問題についての考察へとフィードバックしていくしかないだろう。」(P.213)

 ほんとそうだよね。本当にその問題が重要だと思ってるんじゃなくて、論文のネタにしたいだけなんじゃないの?「自分は真摯にモノ考えてますよ〜、意識高いですよ〜」ってアピールしたいだけなんじゃないの?ってヤツ、この手の業界には山のようにいますもの。

 というわけで、良書と呼ぶにふさわしい本書だけど、ネグりのマルティチュードとかを持ち出すあたりには感心しないなあ。著者の仲本は、「ネグりチュードが新たな革命的主体のようにあつかわれてはいけない」などとしっかりツッコミも入れているわけで、この概念を全肯定してるわけではもちろんないのだけれど、そこそこ好意的に解釈しているのが、ぼくには気になる。

 だってさ、マルティチュードとかって、空疎なインチキ概念なんだもん。あれ、ハッキリしたこと何も言ってない概念だもんね(無規定概念なんだって)。かっこつけ、ユートピア願望ばらまいてるだけ。ネグリのインタビューを呼んだけど、あいつ適当なこといってごまかしてるだけで、とんだ山師だと思うぞ(ウソだと思う方は読んでみてくれよ)。

 近代の自由な主体という考えが神話であることは認めるが、かといって反動的に主体の解体を叫ぶのもバカらしい。著者のそうした主張には強く同意する。でも、だとしたらマルティチュードがどうたらこうたらなんてどうでもいい話じゃないのか?問われるべきことは、「具体的にどのように運動が展開されていったらいいか?」という問題なのであって、そのために議論されるべきは「運動団体の既得権益化をどのように制御すればいいか?」「さまざまな市民がネットワークを結ぶために必要なシステムはどういったものであるべきか?」といった問題だろう。運動しているヤツらが旧態依然とした近代的主体なのか、それともマルティチュードと呼ぶにふさわしい多様態なのかなんて、どうでもいいんだよ。マルティチュードって歯車をいれても他の歯車とどこもかみ合ってないわけで、まさに空回りなんだよね。なんの問題解決にもなりませんて。

 それぞれ別の意図、目的、意識をもった多様な市民から運動が成り立っているってことは、そもそも市民運動論やアドヴォケート活動の指南書では「常識」です。だからそういう多様な市民をどうやってアドヴォケートしていくかが問題になるんでしょーに。それに、革命的主体になること、それを欲して運動してるヤツはとても多いの。人間にはそういうヤツが一定の割合でいるものなの。そこを「込み」にして論じないとナンセンスだよ。で、そうしたことを論じるためのヒントをこの概念は全く与えてくれない。ここから先、必要なのは思想ではなくして、社会科学だと思うんだけど、どうだろう。

 ぼくだったら「自由な主体ってのは神話でーす。でも、とっても大事な神話でーす。なのにこれを悪用して弱者をいじめる人がいまーす。どこまでが主体かなんて、ケースバイケースよ。どの主張が妥当か、地道に一個一個検討していくしかないと思いまーす。」って言うけどね。本書を読むかぎり、著者もこのことに気づいていてよさそうなもんなんだけど、そう断言せずに「迷っている」、まだ「大きな話」に引きずられている感じがする。そこがもどかしくもある。マルティチュードに対する扱いにイマイチな煮え切らなさを感じるんだけど、その背後にこうした迷いがあるような気がして、ちょっとひっかかった。

 実地にいろんな問題にもかかわっている著者のこと、そこで得られた経験が、思想にどのようなフィードバックを与えるのか、今後もできるかぎりフォローしてみたいと思う。



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