トップページレビューの森>レビュー56

音の力 ストリートをとりもどせ




音の力 ストリートをとりもどせ
DeMusik Inter編
(インパクト出版会・2002)









 ストリートって何?ハッキリ言うよ。オレは知らん!要はレコード会社やメディアが新たに手に入れたマーケティング用の「ラベル」、それ以上でも以下でもないと思ってる。違うの?仮にそうでない「ホンモノ」のストリートがあるとする。でも、それはストリートとかって名前とは全く関係なく既に営まれているものであると思う。

 まあ、いいや、そうした営みにストリートって名前をつけると。で、それを取り戻したい・・・と。じゃあさ、策を練ろうよ。策をさ。たとえば、この本で「すぐ逆ギレすることで有名」(p.99)とかって言われてる石原慎太郎をどういう風に引き摺り下ろすかとか、その逆ギレ野郎がストリートに押し付けてくる政策から、なんとかして身を守る方法とか、そうした政策を執行させないような作戦、そういったものを考えようよ。本当に取り戻したいのなら・・・なぜそれをしないんだ?なぜ気障ったらしい文章(あの気色悪い体言止めの並列だ)ばっか生み出してんのさ。何をあきらめてるんだよ。世の中変えろよ。変えるために何をしなければならないかを考えろよ。

 ぼくなんかは「ストリート」って言葉は結局のところ、この本にヘタクソな文章を寄稿している夢見がちな学者さんたちが、昔馴染みの回顧的ユートピアのために拵えた新たな名前、ただそれだけなんじゃないのかと訝ってしまう。彼らの魂がユートピアに飛び立ったまま、現実に帰ってきてないのは本書を読めば明らかだ。「呼吸するために「そろそろ」はじめること」?「周縁性は響きあうか」?バカ言っちゃいけない。彼らが新たなジャーゴンを捏造してはそれを脱構築している間に、此岸では刻一刻とストリートが奪われていったり(誰に?あんたらお気に入りの「資本」ってヤツにか?)、それでもどっこいたくましく生きている芸人さんがいたりするのだ。全部とは言わない。でも、本書に文章を寄せている多くの学者たちの物言いは、ストリートからもっとも遠いものだと考えざるをえなかった。

 それに対して、芸人や歌い手さんたちのインタビューには、ドキっとさせられる。なんとなく今の日本の文化状況にしっくりこないぼくのような人間に、その違和感がどこからくるのかを教えてくれたりする。

渚ようこ(歌手)。

「昔の歌謡曲って、歌手と作詞家と作曲家がいて、そういうプロの世界ですよね。私はそういう表現をしていきたいなあと思っているんです。今は誰でも書くから何か変なんであって、誰でもやっていいというものじゃないですよね。」

林幸治郎(ちんどん屋)。

「それにしても、何で彼らは、人が多すぎて、規制のきつい繁華街でやることしかできないのでしょうか。/僕には、それが、CDとかビデオとかテレビとか、主にマス媒体を通してしか不可能な表現を、生の現場で無理に求めようとしているとしか見えないのですが。」

 なかでもヒデ坊(ソウルフラワーユニオン)が、セイグァ(登川誠仁)とのレコーディングの様子について語っている箇所は、自分とは全く異なる「音楽と生活の関係」が生き生きと描かれていて、強く印象に残る(それにしてもヒデ坊の文章はとてもいい)。

「(セイグァは)やり終わってすぐに私に「今のは上等だったさ」と言って、三線を置いた。コントロールルームから「今のよかったです!聴いてみましょう!」。セイグァはいきなり目を丸くして、私に耳打ちした。「あの人たちは耳がないのか、それとも今のを聴いてなかったのか!」。吹き出してしまった。コントロールルームに行って「ワタシはもう演ってる時に一回聴いたからもういい」と言ってとっとと帰って行った。アッパレである。」

 基本的にこの本に出てくる芸人さんや歌い手さんは謙虚だ。自分のやりたいこと、やれることをしっかりとやりながらも、決して出すぎた自我やトラウマを押し付けてくるわけじゃない。芸を成立させる、歌を成立させるためにこそ自分がいるのであって、なおかつそれが自分の「表現」なのだといった感じがする。

 ぼくは自意識過剰なロックを最近あまり聴かない。楽しませてくれる、歌や演奏のかっこよさだけでなく遊び心に溢れたショーを展開する、そんな芸人根性のある人の音楽を最近ではよく聴く。ぼくの趣味の変化はリスナー経験を積んだことによる自然な移行なのかもしれないけれど、やっぱりただ年齢を重ねたからだってわけじゃないとも思う。謙虚さとともに成立しているエンターテイメントに自分が惹かれる理由、インタビューを読んで、その一端を知ることができたような気がする。



・前のレビュー
・次のレビュー