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その意味は 考えるヒット4




その意味は 考えるヒット4
近田春夫
(文春文庫・2003年11月)









 歌謡曲、Jポップ、Jラップ、演歌を論じた音楽評論『考えるヒット』第四弾の文庫化。今回は2000年のヒットが対象です。2000年といわれて、どんなチャート状況だったかみなさん覚えてるかい?倉木麻衣、矢井田瞳、小柳ゆきなんかがブレイクした年ですね。あと、演歌だったら『孫』がバカみたいに売れた年だ。郷ひろみ、松田聖子の紅白「同時出場」なんかも話題になったなあ(よかったね、来世をまたずしてとりあえず一緒になれて)。

 近田春夫のよいところ。それはまず、音楽を音楽面から語れるところだ。これができる人が、今圧倒的に少ない。自称音楽評論家のほとんどは音楽の構造についてほとんど語れてないでしょ?でも、近田は違うのね。たとえばスマップの『らいおんハート』について語った以下の個所。

「それはそうと、この曲のキモはどこにあるのか、ちょっと音楽的なことを書いてみよう。この曲は大きく前半と後半しかない。その割に構成が複雑に聴こえる。勿論、たっぷりと付け加えられた英語のコーラスも関係しているが、それより、サビに入る一行前、♪ありきたりの恋 どうかしてるかな ここのメロディの意図された落ち着きのなさである。これがたったの二小節あるだけで、前半からサビへの移行にワープ感というかグラデーションがつく。結果、全体が実際より覚えにくいシルエットになるのである。」(P.206)。

 音楽まったく知らない素人にもわかる、単純な話。だけど、まさにそうだなあと納得してしまう。この人の「キモ」把握能力の高さをみせつけられる。楽曲だけじゃない。スネアやハイハットの音色に対する指摘から、和モノ・リミックスの難しさについての言及まで、いちいちその評論に「なるほど」とひざを打つ。理屈っぽい。でも、論じる言葉に過不足がない。だから、嫌味がないし、もったいぶった感じがなくて、とても明晰なのだ。

 そして、音についての話、それだけでは終わらない。本書、ポップカルチャー評論、マン・ウオッチング・レポートとしても高い水準をキープし続けてるのだ。たとえば、ともさかりえとシーナリンゴのコラボレーションについて論じた箇所や、日本のヒップホップについて論じた以下の箇所。

「いってみれば、イギー・ポップとデヴィッド・ボウイ。どちらがどちらかは判らないが、ともさかりえと椎名林檎は、芸能人的“お友達”レベルではないもっとディープな部分で信頼し合っている気がする。これは商売ではない、本当のコラボレーションである。私はそう思った。」(P.162)

「このシングルにしてもそうだが、近頃の日本のヒップホップは大層良く出来ている。/しかし、良く出来ているというのが誉めコトバになるのかどうか。うまくいえないが、自分のなかにひっかかるものがあるのは確かである。(中略)黒く塗っていた頃のシャネルズには、なりきることを知って楽しんでいるという信号の発せられているのが、こちら側にも伝わってきた。ひるがえって今、ヒップホップアーティストは、困ったことにマジなのだ。/真剣勝負みたいなコトバを彼らは好む。そして本気でそう思ってる。しかし、実際はタマの出ないオモチャのピストルで撃ち合いをしているようなものではないのか。/要するに、今の日本のヒップホップは、オモチャのピストルとして"良く出来ている”ということである。/良く出来ているその前に、重要なのはタマがちゃんと出るか、ですよ。見てくれではない、武器かどうか、なのだ。/私は日本のヒップホップは、モデルガンとしての自覚をもっと持った方が面白くなる、と思っているのであった。」(P.70〜72)

 特に和モノ・ヒップホップに対する指摘は(著者の一貫した態度だけれど)、これ以上ないくらい的確だと思う。日本のヒップホップ野郎の多くに共通するつまらなさ(キレイに脚韻踏んでばっかだけど、そのスキルの高さ以外に結局何もない)に、「そんなヒップホップばっかじゃん!」とイライラしているぼくのようなリスナーは、「今の日本のヒップホップって要はフュ―ジョンなんだよね」って言い当ててくれる近田のような評論家がいてくれて、とーっても安心するんだよね。

 もう、4冊目(つまり4年目)にもなるのに、シリーズを追っていく中で、言うべきことがどんどん増えているのも脅威。対象を評論することを通して、学習したこと、得た発見。近田はそれを次の評論にうまくフィードバックすることに成功している。サザンの魅力を「関数的な懐かしさ」だと言い切れるのは、デビュー時からサザンについて論じていた近田にしかできない芸当で、文章にもその自信のほどがみがぎっている。シリーズを通して読むと、その学習過程、発見の現場を追体験できるのも嬉しい。ヒット曲という題材からか、文章のそこかしこに現場感が漂っているのだ。音楽から何かを学ぶ、その喜びをストレートに表明する近田を見てると、ああこの人、根っからのフィロソファーなんだなあって思う。

 ただね、著者自らが語っていることだけれど、このシリーズに対するモチベーションがだいぶ希薄になってきたことは、そしてそのせいか、評論にツメの甘い箇所、論じることがなく散漫なコメントに堕してしまっている箇所が見受けられるのは非常に残念でもある。たとえば「郷ひろみはトム・ジョーンズだ」と述べている箇所など、まあ確かにそうなんだが、近田ならその先を論じられたんじゃないのかとか思わないでもない(いや、みんなGOがトム・ジョーンズ芸風なのは知ってるっしょ)。連載終焉の予感がそこはかとなく漂っているのだ。その微妙な陰影も、シリーズを読みつづけてきた読者には、ある種の味わいとして機能しないでもないけど。

 対照的に安斎肇のイラストは神懸ってきましたねー。松田「セイコー」ですか。このダジャレ度、かわいらしさの、なんと愛しいことよ。



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