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スピノザの世界 神あるいは自然




『スピノザの世界 神あるいは自然』
上野修(著)
講談社現代新書 ISBN: 4061497839
\ 756
(2005/04)









「手軽に手に取れて、しかもじっくり中に入り込めるようなスピノザの入門書があればいいなあ」との思いで執筆されたそうな。狙い的中。ぼくはこれは理想的な新書の入門書だと思う。素材の調理がすごくうまい。来てるお客様が誰なのか、ちゃーんとわかってるって感じだ。

仮に、「『エチカ』って本、どうやら有名らしい、倫理の本らしいぞ。よし、読んでみよう」って何も知らない人が思ったとする。で、岩波文庫とか買うでしょ。そうすると、エチカには全体の序がないわけだ。訳者の解説を読むと、どうやら『知性改善論』って本が序にあたるようなものらしい。知性改善論の概要、エチカの目的、スピノザの人柄について触れられている箇所を読むと、こんなことが書いてある。

「この孤高の哲人も若き日には世俗的幸福――富・名誉・快楽に無関心ではなかった。しかし幾度か幻滅の悲哀を感じ、そのむなしく儚ないことを知ったのち、人間の関与しうる永遠・恒久の善が存在しないかどうかを探究しようと決心し、倦まざる思索の結果それが神への認識と愛にあることを確信するに至った。この神への認識と愛が同時に『エチカ』の究極目的でもある」(『エチカ 上』、岩波文庫、畠中尚志による解説p.11)

白状すると、ぼくは以前、これを読んで「あー、この人(スピノザ)自分に関係ない人だなあ」となんとなく感じた。当然、この解説、決して間違っているというわけじゃあないだろう。でもね、モチベートが下手。下手っていうか、なんか重々しいじゃん。曰く、「孤高の哲人」。曰く、「倦まざる思索」。

まず、スピノザの研究動機に「ついていきたい!」って気持ちが生まれないんだよ。「孤高の哲人」が一人しこしこレンズ磨き、ストイックな思索の末、「神への愛が幸福だ」って…。どーせ机上の空論だろ、って印象がしちゃうでしょ。ついていったら、フツーの意味で「不幸」になっちゃいそうだし。神ってなあ。負け惜しみなんじゃないの?

当然、『エチカ』本文を読んで順に考えていくと、わからないことも多々あるとは言え、「ああ、そういうことか」となるんだけど、その前に、こういうイメージを持ってると、例の定義、公理、Q.E.D.の連続に相当読む気を削られるんだよ。

対して、この上野さんの入門書は最初のモチベートが抜群にうまい。

「スピノザの決心は、「最高の喜び」の可能性を本気になって考えてみようという、いわば純粋享楽の決心にほかならない」(p.23)

「この賭には思わぬおまけが付いてくる。ここがスピノザのおもしろいところだ。/スピノザは商人のように(実際、彼はユダヤ商人の息子なのだが)、抜け目ない考量で選択1[世俗的善を捨てて、究極の善Xを探究するという選択―引用者]を取った。(……)ところが、Xを探究しだすと、はじめ犠牲にしなければならぬと思った世俗的善が、いわば忘れていた還付金のようにして還ってくるのである」

随分と印象が違う。「最高の幸福とは何だろうか。いかにして可能か」。こう問うと荘厳な感じするけど、身も蓋もない言い方すれば、「幸せになりたい!」ってことだしね。それなら、孤高の哲人じゃあない、そこらの給料マンにも身に馴染む問でしょう。

これは単にスピノザ観がどうこう、最初のモチベートがどうこうって話だけじゃなく、実際、こういう風に見ないと、スピノザ思想の一番の大事なとこが格段に伝わりにくくなると思う。そして、ここが、この入門書で著者が伝えたい重要なポイントの一つだと思う。「世俗的善をあきらめ、真の善を…」ってなると、ネガティブな感じがする。でも、スピノザの<哲学上の>矢印って全く逆で、最高善ってポジティブなものがあるから、世俗的善もその限りでポジティブなんだ、肯定できちゃうよって話でしょう。

ここのところを誤解すると、たとえば、ニーチェがスピノザに共感したってエピソードがわかんなくなっちゃう。「これじゃない、本当の善とは?」って。それってルサンチマン、すっぱい葡萄だろうってなって、ニーチェが一番嫌いそうな発想に見えてくるじゃないですか。でも、そうじゃないんだね。

「しかしニーチェは神の死を引き受けようとして孤独だったのに対し、スピノザは彼の神とともにいた。だれの手も煩わせずに、いわば勝手に救われていたのである」(p.167)。

そういう結論になるからこそ、実体が云々、自己原因が云々って味気ない話にも「ガマンしてもうちょいついてきて」って言えるようになるわけだ。でも、そこが伝わりにくいんじゃないかと。世俗的善に倦み果て、最後は神。頭とシッポだけ提示されるとドン引きされても仕方ないし、ボディを読んでもそのイメージに引っ張られて、不可解なところがでてくる、不要なストレスをためてしまうことになりかねない(特に『エチカ』後半)。

本書は、スピノザの人柄についてあまり語らない。でも、著者がスピノザの哲学に、その人柄を上手く語らせてるところがある。ウェットな記述、韜晦趣味は皆無だけれど、だからといって無味乾燥ってわけじゃあない。カラっと乾いた無邪気なスピノザ世界は「有味」乾燥、大変味わい深いと思わせてくれる。

内容の理解もしやすいけれど、先のニーチェとの比較とか、「腑に落ちる」表現にドロップ・インする著者の手際が巧みで、ぼくはプププと笑い、膝をポンポン叩きながら一気に読んじゃいました。前提知識もほとんどいらない。グイグイ引きこむ。入門書の鏡でしょ。(2005・10・21)




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