『紅一点論』
斎藤美奈子

筑摩書房 ISBN: 4480036660
\819
(2001/09)




 アニメ・特撮・伝記のヒロイン像を、独自のキーワード、しかし決して難解ではない言葉を使って分析していく。女性は数の面でも質の面でも「紅一点」の存在であるように、つまり、『世界は「たくさんの男性と少しの女性」でできている』ように、アニメや伝記では描かれるていることを明らかにする。そこでは 1.女性は男性に比べて数が少ない(量の面での紅一点) 2.女性は魔法少女、紅の戦士、悪の女王、聖なる母という類型に単純化されて描かれる。そのどれをとっても社会にとって都合のよい類型である(質の面での紅一点)、という。

 とにかく、読んでて楽しい。アニメや特撮、子供向け伝記の明らかにおかしいところ、ワケがわからんところにしっかりとしたツッコミを入れていて、笑えた。セーラームーンのタキシード仮面について『彼は大学二年生である。大学生の男が、中学生のわがまま少女を将来の妻と見定め、なんでもいう通りにしてやるのである。こういう男を、世間はふつうロリコンと呼ぶ(近年は援助交際とも呼ぶ)のではなかったっけ? 地球の王子エンディミオンの生まれ変わりなんだから当然だというのなら、なお問いたい。地球の王子エンディミオンは、王子のくせに、月の王女セレニティのこと以外、眼中にないのか。(P.147)』なんてツッコミをいれているところとか。既成の理論を持ってきて、作品にの大まかなところだけに合わせていくのではなく、こうした細かいところをいちいち真剣に取り上げる姿勢には好感が持てた。

 ただどうだろう。ヒロイン像は4つに分類できる、男性キャラには多様な類型があるのに、女性は4つに類型化される、っていう主張だけど、果たしてこれ妥当な主張なんだろうか。というのも斎藤は男性がどのように類型化されるのかをほとんど示していないからである。アニメ分析の後半、「エヴァンゲリオン」や「ナウシカ」「もののけ姫」を分析する段になると、少し混乱も見える。女性に感する4つの類型を無理矢理当てはめているのではないかって気がしないでもない(ってか、メチャクチャそう感じる!)。もし、男性について4つから5つの類型を提示し、それが近年のアニメ作品や特撮ものに少々無理無理でも適用できることを示されたら・・・そして、それは可能であるような気がするのだ。この点、説得力にかけるというか、独善的に評論が進行していってるような。

 ただ、もちろん男性のヒーロー像がいくつかのパターンに類型化できたとしても、そのことは女性像と男性像が対照的であることを示しているわけではないし、女性キャラの4つの類型はアニメや特撮の初期にははっきり見られるわけで、いわばここでは最初に4つの類型を立てることによって、アニメ・特撮の変化を追うための装置として、例の類型が機能しているのだと思う。つまり、アニメ分析後半のグダグダ感、すっきりしなさは現在のアニメ文化がそれくらい複雑なものであるということによると見るのが妥当だろう。そして、その複雑さがどういった経緯によって生じているのか、どうしてこんなに複雑化したのかという点を見るために、斎藤の分析視角はある程度まで有効だと思う。

 しかし。だからといって。やっぱり納得がいかない箇所がある。それは結局、「じゃあ、女性がどういう風に描かれればあんた満足なわけ?」って疑問に終着する。斎藤はいわゆる「女性らしい」ものとしてヒロインが描かれる場合、それを4つの類型に収まっているものとして扱う。そうでない場合、既存の「女性らしさ」に回収されないようなキャラクター(たとえば、宮崎カントクのナウシカとか)は男になってしまったって言い方をする(『ナウシカはスカートをはいたヒーローである(P.200)』)。アニメだとか特撮においては、キャラクターの類型化が避けられない。そうであるなら、女性がどう類型化されれば著者は満足なのだろうかという疑問が出てくるのは至極真っ当な反応だろう。

 ただ結局、この疑問はフェミニズムが常々悩まされてるパラドクスとパラレルな疑問であることによるのだとも思う。つまり、「女性性というものがないのだとしたら、「女」って何よ?」っていうパラドクスである。都合のよい既存の女性性が認められないものだとしても、いまだそこを完全に離れた女性性なんてものを私たちは得られたことがないのだ。ノット女性→男性という図式に落ち着いてしまうのだとしたら、それはこうした事情を反映しているのだろう。そしてもう一つ。様々なヒロイン像、女性像から、念入りに排除されている類型が一つあることにも気付く。フェミニストだ。

 斎藤も言うように、アニメ・特撮の世界では政治(現実の政治)はタブーである。特に、そこでは女性と男性との間に闘争があるような世界観は排除されている。そこでは最初から女性と男性の対立はないように、女性が女性であることをことさら悩むようなことはないように描かれている(女であることを意識しても、結局それは「個人の悩み」であるとされたり)。女性性を持ったキャラはみんなエコフェミ=半近代主義者として描かれ、仮に男性VS女性っていう問題が浮上する場合は、近代合理主義VS反近代主義って図式になる。こうした政治要素排除≒フェミ要素排除の仕組みを明らかにした点に本書の意義があるのではないか。最終的にそういう評価に落ち着いた。

(2003/06/27)



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