『「知」の欺瞞』
アラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン(著)
岩波書店 ; ISBN: 4000056786
¥3150
(2000/05)


 本書のテーマは、いわゆるポストモダニズムの著作に見られる科学用語の誤用・濫用の指摘と、過激な認識相対主義に対する批判である。著者の一人、アラン・ソーカルは、アメリカのチュラルスタディー研究誌『ソーシャルテクスト』にパロディ論文を投稿し、それが掲載され様々な議論と批判を巻き起こした人として有名だが、本書には、問題になったパロディ論文『境界を侵犯すること―量子重量学の変形的解釈学にむけて』と、それに対する解説も付録として収録している。

 著者のソーカル=ブリクモンの主張は単純明快である。まず、いわゆるポストモダニズムと言われる著作の中に出てくる科学用語はそれがマジで使われるにしても、メタファーとして使われるにしても、単純な誤りか、ナンセンスの域を出ないものでしかないということ。このことをソーカルらは指摘する。例えば、難解な精神分析理論で知られるジャック・ラカンの著作には数学の用語が多く使われているが、そこでは無理数と虚数が混同されているし、同じく精神分析理論や、記号論、言語の研究などで知られるジュリア・クリステヴァはゲーデルの不完全性定理を全く正反対の意味に解している、といった具合である。

 また、仮にその科学用語の使用が誤っていなくても、一体なぜそんな用語を使うのか、他の主張との関連などについて、全く説明の無いこと。このこともソーカルらは指摘する。例えば、ポストモダンフェミニストとして知られるリュス・イリガライは、流体力学を取り上げ、そこに性支配構造を読み込むのだが、「剛体力学、流体力学に関する何冊かの著作を参照する必要があるだろう」と言うにも関わらず、一冊の参考文献も挙げなければ、それが自身の主張とどう関連するのかについてもまともな説明を全く挙げてない、といった具合である。

 本書でなされるもう一つの批判は、認識論的相対主義に関するものだ。相対主義を導く根拠とされる主張、例えば科学史家トマス・クーンの科学革命・パラダイム論や、ファイヤアーベントのアナーキズムからは、決して相対主義的主張を導くことができないという批判である。まず多くの場合、相対主義の根拠になるとされている主張が誤解されている。また、仮に論拠としてもちだされるテーゼが妥当に解釈されたものであったとしても、そこから相対主義を導くことはできない。また、相対主義が正しいとすると不可解な点が多くある。本書では、こうしたことが指摘され、相対主義に対する著者のスタンスが示される。

 ところで、こういう本が出版されると決まって出てくるのが「哲学者や社会学者は全く数学をわかってなかった。やっぱり王様は裸だったんだ〜っ!」とか「これだから人文社会学系の学問はダメなんだ」とか言い出すヤツ。アホですか? もう一度ちゃんと日本版序文とか読んでみなって。哲学者や社会学者の一部を取り上げただけで、こうした批判が当たらない研究者もいるし、人文社会学系の学問は無意味だとかそういうことを言っているわけではない、ってなことがちゃんと書いてあるでしょ? なのに、そうやって早とちりしてしまうとすれば、そういう人はこの本で槍玉に挙がっている人たちと五十歩百歩ですよ。哲学にも数学の哲学とかって言われるジャンルがあるくらいで数学についてメチャクチャ詳しい人もいるし、しっかりした統計理論に基づいて社会学の研究をしている計量社会学者もたくさんいるんですから。むしろ、人文社会学系の研究者の中には、この本に快哉を叫ぶ人も多くいると思うよ。

 逆に、この本を読んで、「科学者の傲慢だ!科学の立場を上に置き、そこからこうした研究を否定するのは独断だ!」とか言い出すヤツ。これも同じ穴の狢だと思う。だって、これも本書に書いてあることだけど、ここで槍玉に挙がった人たちの理論の他の部分に関しては判断を保留する、ってソーカル達も言ってるじゃない(一応ね)。なんで、そうすぐ「科学者vs人文社会学」ってな、構図を作りたがるのかぼくにはさっぱりわからん。要はそいつが科学者だろうが、人文学研究者だろうが、そいつの言ってることがが妥当かそうでないか、ってだけのことでしょ? で、ここでのソーカルらの主張は基本的にはもっともなものだと思うよ(パロディ論文を書いたこととか、ラトゥールやSSKのストロングプログラムとポストモダニズムを同じように扱っているとことか、そうした点には納得がいかないが)。

 もう一つ言っておくと、ポストモダン研究と、思想上のポストモダニズムを混同しちゃって、「ポストモダンなんてナンセンス」とか言っちゃう人もいるけど、これも大変な誤り。「ポストモダン」と呼ばれる様々な社会現象(建築や美学、社会システムなどに見られる「近代」という概念では説明できない部分)は、立派な研究対象ですし、このことはおそらくソーカルらも認めるだろうし。これと、ポストモダンな状況とか、そこに見られる考え方こそが正しいとか価値があるとする「ポストモダニズム」とは全然意味が違う。ここを取り違えるなら、その点で虚数と無理数を混同するジャック・ラカンと同罪だよね。こうした点に関してもソーカルらはきちんとコメントしている。

 この本とか、件のパロディ論文などが発表された時、大変な反発・誤解があったらしい(マイケル・ムーアもソーカルを右翼呼ばわりしたって記述にビックリ)。だけどそうした反発の多くはポイントを外している気がするし、同意しているつもりの人も多くを誤解している気がする。きっちり読んでいけば、そんなセンセーショナルなものではないと思うんだが。科学vs思想って二元論や、正しいor正しくないってオールオアナッシング思考の蔓延が、この本をセンセーショナルにした原因なのではといぶかってしまう。

(2003/05/24)

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 いやはや、読んで驚きましたわ。高校時代にクリステヴァとか読んで、チンプンカンプンながらも、なんとか理解しようと頑張ったぼくですが、著者によると、そのクリステヴァの意味わからん部分が全くのデタラメということになるのだ。時間を返せ!って怒りたい気分もあるし、まあそうだろうなってなことも思うし。フランスのポストモダン思想がおかしいってことは、ソーカルの手柄というより、結構多くの人が気付いていたことだと思うんですが。ポストモダニズムに関して知りたい人、その問題点を知りたい人にはテリー・イーグルトンの『ポストモダニズムの幻想』って本がオススメ。ポストモダニズムの主張で、ポストモダニズムのおかしい点を指摘するという一冊で、短いしすぐ読めます。



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