『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』
永井均(著)
産業図書 ISBN: 4782802099
¥2310
(2003/02)


 単純に世の中の倫理観を信じきってしまい、それを押し付けてくるヤツがいる。たくさんいる。こういう人には困りものだけど、一方で倫理なんてナンセンスだと躍起になって倫理を否定してくるヤツがいる。たくさんいる。こういう人も大変困る。 両者に共通しているのは、倫理現象を単純に(おそらくなんとはなしの感情から)肯定したり否定したりするだけで、なんで「正しい」と考えるのか、「ナンセンス」と考えるのか、そこのところを理屈でほとんど詰められていないところだろう。こういう人たちと話をしよう、お互いの主張を論じ合おうと思っても、ただそれが「点」の思い込み・信念であるだけで、線の思考・論理ではないので、全否定か、全肯定かしかできなくなってしまい、結局議論するところまでいけない。倫理現象じたいに関してもそうだから、具体的な問題、例えば「動物にどんな権利をどこまで認めるべきか」なんて話になっても、状況は変わらない。これは大変困る。

 つまんない思い込みを捨てて、よくよく考えてみれば倫理という現象はなかなおもしろい現象なのだ。倫理とは何かという問題に関して、詳細で率直な議論を展開している本書はそうした問題を考える楽しさをストレートに伝えてくる稀有な著作だと思う。専門的な知識を何も知らなくても話がわかる点も、教科書として優れている。

 様々な倫理学上の説を時代順に解説してくれる「M先生の講義」と、講義を受けた学生と猫のアインジヒトによる「アインジヒトとの対話」を交互に交えたサンドイッチ形式で進行し、最後にM先生と猫のアインジヒトが対話で対決!という風に全体は構成されている。倫理学のジャイアントの説にも率直な疑問をぶつける「アインジヒトとの対話」はもちろん永井節全開なのだけれど、一応講義の体裁を取っている「M先生との対話」も、著者の永井氏にしか書けないオリジナリティに溢れている。このM先生の倫理学古典の読み方に、なるほどと納得させられることしばしばだ。

 倫理学の話をしているのに、永井氏のもう一つの研究テーマ、独我論の問題が顔を出す箇所がいくつもあり、倫理学が無意識に前提していることを浮き彫りにするための重要な装置になっている点が見逃せない。独我論の地点から逆照射されることで倫理学では扱っていない、扱えない倫理の問題が見えてくる。囚人のジレンマが提起する問題をこんな風に読めるのも著者だけだろう。個人と社会という単純な図式に還元されない議論もとてもラディカルだ。

 しかしなんといっても、本書の白眉はM先生とアインジヒトの直接対決の章だ。哲学的対話のおもしろさがギュウギュウに詰まっているし、議論のレベルは高水準。M先生、アインジヒト共に一歩もひけをとらない。エキサイティングだ。注目したいのは、最終的にM先生の立場とアインジヒトの立場を一つにまとめることができないという指摘がなされているところ。本書を読んで早とちりをしてしまい、「結局、<私>こそが一番重要なのだ」と読んでしまう人は多いと思われる。しかし、著者はもっと慎重なのだ。『世界を、俺の世界というものを含んで、結局のところは他者と共存する世界こそを最終的なあり方として見るか、他者と共存する世界を含んで、結局のところは俺の世界こそを最終的なあり方として見るか、その違いだな。』『その二つの捉え方を一つにまとめることはできない、ということなのだ』(220ページ)。そうした誤解をする人には、単純な結論に飛びつき自分が不思議だと思うことに浸るのではなく、この箇所を読んでもう少しじっくり粘る、粘ってとことん考える、その哲学の楽しさ・妙味こそを味わって欲しいと思う。

 永井氏の哲学と、他の哲学者の主題が重なり合う地点はいまだ見えない。永井氏はそれで構わないと思っているようだ。上記引用箇所がその理由となっていると考えているように思える。しかし、私はせっかくだから議論を戦わせて欲しいと思っている。果たして『二つの捉え方』を一つにまとめることは本当に不可能なのだろうか。不可能だとすればそれはなぜなのか。このことを考えていくことで、その端緒が見出せないものか・・・。

(2003/05/19)

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 産業図書の哲学教科書シリーズとして、出版された本書。売れっ子永井均の本だということで、シリーズものなのに本書だけデザインが全く違うのがすごい(門脇さんや、戸田山さんの教科書のデザインは統一されてるのに・・・)。アインジヒトのしおりまで入っちゃってるし。台所事情や、著者の意向もあるだろうし、そんなところでよくわからん嫌味をいうつもりは毛頭ないけど、それにしてもこの本の誤植の多さはひどすぎると思う。もう少しなんとかならなかったのかなあ。内容はいいだけに、とても残念。出版社さんには頑張ってほしい。



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