クルーググマンやウィリアム・バロウズなどの翻訳で知られる山形氏の様々な書き物を、主に書評を中心にまとめた本。いろんな所から、山形は消費税をガンガンあげれば景気がよくなるだとか、選挙権売買制度をつくるべしなどといった「極論」を振り回す人だと聞いていたが、読んでみると結構言ってることはおとなしくて意外だった。 そうではなくて、本書の魅力はその素人っぽい文体・語り口にあると思う。これは著者も自ら言うように、橋本治の影響があるんだろうが、その素人っぽさの演出(もちろんこれをやるためにはかなりのプロ芸がいるに決まってる)が読者と著者の垣根を低くすることに大きく貢献している。押し付けられてる感じがないって言えばわかるかな。頭のとんでもなくキレる友人とマージャンしながらするよもやま話って感じ。ワクワクしながらちょっとニヤけた顔で、お互いのバカさを指摘しあうことの楽しさ。要は不必要なプレッシャーを読者が感じなくてすむ、彼の語り口はそういうもんだってこと。 例えば著者の主張にはいくつも納得いかない点、ダメ出ししたくなる点がある。蓮賽重彦の本ってそんなにいいか?あいつ、そんなエラいヤツか?岡崎京子とかマンガ・小説を扱った文章説得力全然ない。主観的な印象に過ぎるし、結局キミはどういう風にこれらの本を読んだのか全然伝わってないぞ。浸らずもっと分析してくれよ。アニマルライツを叫ぶヤツなんてバカだっていうけど全然バカじゃない。なぜならおまえが言う通り、権利なんてお約束事、取り決めだからだ。彼らはそこを争ってるの!ボーヴォワールの本が影響力低い、夏目漱石もそうだなんて、ウソッぱちだ。キミの言う通りマルクスくんの本なんかよりは影響力少ないのかもしんないけどさ。etc.etc.・・・。 こうした反論がもし正鵠をえたものならすぐにでも「うん、ごめん。」って謝ることができる、そのくらい理屈に殉じている、そんな感じが著者のスタンスから伝わってくるのだ。たとえ著者と読者という関係であれ、こういう人とコミュニケイトできることは私にとっては至福の喜びだ。本を読む喜びはそうしたコミュニケーションをする喜びだということ、そしてそのコミュニケーションはできるかぎり理想的な、平等な関係でなされた方が、つまりはモラルや常識などに縛られずとことん理屈だけを使ってコミュニケーションがなされた方がおもしろいということを、この人はよくわかっていると思う。 そのことは彼の書いた書評を見ることでもわかる。書評、つまり今度は山形氏が読者で、読んだ本の著者と向き合う場面というわけだ。ここでも山形氏は著者のことを崇拝したり絶対化したりなどはしない。、たとえ相手が歴史上の偉人でも、有名な作家でも臆することなくタメ口で、あくまで友人感覚で接する。理屈に合わないこと言うヤツはたとえそれがどんなに世間的に偉大な人とされていてもしっかりと貶す(『ハンチントンというヤツは多分にバカにちがいないと思う』)結果、書評で取り上げられた本の著者=山形=本書の読者というイコール関係がたち現れる。彼の書評は上記三者のイコール関係を構築し、可視化してくれるという点において大変有難く、魅力的な代物となっている。書評の醍醐味を押さえている。読書がほんと好きなんだろうなあ、この人。 『構築的で分析的で、極論を平気で言えて、現実的でありながら抽象的な議論をつきつめるおもしろさを知っていて、ヒューマニズムだけでは世の中まわらないのを知っている―平和が必要としているのは、そのような人間である。』山形氏はこう述べる。この本からだけじゃ断定はできないけど、山形氏こそがそういう平和が必要としている人間なんじゃないだろうか。この本を読んで、私もそういう人間になりたいとさらに強く願うようになった。 ■1つ前のレビュー ■次のレビュー |