『ベジタリアンの文化誌』
鶴田静
(著)
中央公論新社 ISBN: 4122041244
¥800
(2002/11)


 ベジタリアンという生き方を通して、生きることを問い直すエッセイ集。

 実はベジタリアンというのは菜食主義者という意味ではない。ベジタリアンの語源にまで遡るってみると、この言葉には「生命に力を与える」だとか、「何かを活発にする/健康にする」といった意味がある。著者は、まず最初にこのことを指摘する。菜食主義者といった意味ではなく、こうした意味まで含めたベジタリアンについて考えるこの本には、ベジタリアンではないが現代社会に生きている私にも強烈に訴えかけるものがある。生きることと食べることは切り離せない。著者はこの当たり前だが、現代人が軽視しがちな事実を様々な角度から見つめ、食についてだけではなく、現代の社会制度全般に対して多くの疑問を提示する。

 はっきりいってベジタリアンは様々な矛盾を内包している。いや、内包せざるを得ない。マクドナルドがそこら中にバカスカ立ち並び、食べ物も地球の反対からやってくるような現代社会においては、自分にとって豊かな食=豊かな生を追求するベジタリアンは、すぐ問題にぶつかり、下手をすれば周囲からの好奇の目・非難にさらされる。人一人生きていけるだけの有機栽培農作物を生産しようと思ったら、よほどのヒマ、よほどの金と時間、つまりは余裕がないとできない。自分だけが良い食を追及するなんて、傲慢もいいところであり、恵まれた境遇にある一部の人間の娯楽だ。グルメ嗜好が倒錯しただけなのかもしれない。こうしたことを考える人も多いだろう。 しかし、それはベジタリアンであることからくる矛盾なのだろうか。むしろ、私たちの社会の矛盾なのではないだろうか。そう思うのだ。

 ベジタリアンであることは(残念ながら)「しるし付き」の生を生きることである。日常生活の中で、誰も自分のことを「ベジタリアンではない」とわざわざ主張したりなどしない。そういう文脈はまれにあるかもしれないが、ベジタリアンは常に「自分はベジタリアンだ」と主張し続けなければならない。ディフォルトはノット・ベジタリアン。人は選んでベジタリアンになるかもしれないが、ベジタリアンでないことを選ぶ必要はない。だからこそわざわざ自分がベジタリアンであると主張する人は目立つし、他人から好奇のまなざしを受ける。つまりは困難をしょいこむことになる。

 豊かな食=豊かな生を送ろうとする人が、そしてその人だけが、こういった困難をしょいこむことになる、そんな社会こそが問題なのではないだろうか。そして、そういった社会の問題をベジタリアンといった有徴の人たちに押し付け、その主張の矛盾点をあげつらうことで、そうした問題を考えなくてもよいと思い込むことができる。要はベジタリアンはスケープゴートにされてしまっている、それこそが問題なのではないかと思った。

(2003/05/10)


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