ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951  鬼界 彰夫( 講談社現代新書・2003)




 書名の通り。ウィトゲンシュタインって哲学者は一体何を考えていたのか、遺稿を含めた彼の著作を読み直すことでその謎にせまる力作。いや、これ力作だよほんと。新書なのに400ページですぜ!ウィトゲンシュタインを文献学的に・・・なんてぼくには気が狂いそうな話ですよ。よっぽどの探究心がないとできない。果たしてその内容は・・・。

 うーん、どうなんだろう。全然ピンとこない本でした。よくわからなかった。失礼を承知で言わせていただくと、少し乱暴な記述の目立つ本という印象を受けました。例えば、『独我論とは独我論の自覚的認識であるから、・・・』(308ページ)なんて書いてある。一瞬頭が「・・・???」ってなったのはぼくだけ?まあ言いたいことはわかるんですけど。

 うーん、読後感悪かったです。こういった主旨の出版物は、通常、ウィトゲンシュタインに関する様々な文献・資料を持ってきて、「こうとしか読めない!」を提示、そこにどこまで説得力があるか・・・そういう勝負をするもの、それを読者に納得させるものだと思いますが、本書の主張にあまり頷けないのはなぜなんだろう。なぜか読んでる最中、欲求不満感じてしまった。で、その「なぜ」を考えてみたらいろいろ理由がわかってきたんで以下でそれを述べて書評にしようと思います。いや、文献学とか以前の問題だわ。

 まず、ぼくがこうしたウィトゲンシュタイン解釈の現場を知らないという点が一つある。要するに読むヤツが悪いってのが一点。他にどんな解釈があるのか、ほとんどよく知らないため、いきなりいろんな資料に照らして、「こう解釈できる」と言われても釈然としないのよ。というのも、「オレはこう解釈するんだ!」っていう積極的主張に関してはしっかりとなされているんだけれど、「他にこういう解釈があるが、その解釈はこういう理由で間違っている」って形の消極的な主張があまりないんですね。ダメットやクリプキ解釈に触れた箇所は多少あるものの、それも非常に短い記述となっているし、「要素命題」や「言語ゲーム」というのはどういうことなのかについて、他にどんな解釈があるのかを知らない読者は、与えられた情報だけだと「そうも読めますね」としか言えない。ウィトゲンシュタインの文章の場合、それは特に顕著だろう。この辺が一般読者には説得力がない理由の一つだと思う。

 次に、その野心的な内容がわかりにくさに拍車をかけているのではないかと考えられる。なんていったって、ウィトゲンシュタインの文献研究、『論考』を取り上げただけでも論文の一本や二本(もっとたくさん?)余裕で書けてしまえる研究テーマなだけに、新書でウィトゲンシュタインの全著作を扱うってのは、野心的に過ぎるんじゃないか。著者の研究をフォローしてる人間にとっては、その総括として読む楽しみがあるのかもしれないが、これだけ濃縮されたものは、一般読者にはちとキツイ。というか、これだけでは明らかに記述不足。ページ数の都合からか、文献学的な話はかなり少なめになってしまっていて、ぼくはそういうのをじっくり一緒に「読み解く」喜びを味わえるのかと思っていたから、不満を感じたみたい。この二点で、本書、一般読者に「文献を読む」喜びを与えることに失敗してると思う。自分の無知に開き直っていえばね。

 そして、最後。一番不満を感じたのは、これを読んでもウィトゲンシュタインが言ってることがわかった気がしない点だ。これはでかい。彼(ウィトゲンシュタイン)の言ってることにまったくピンとこないのよ。で、著者がそれについて解説加えてるんだけれど、その解説読んでもチンプンカンプンなんですよ。「なぜそうなるのか?」がわからない。「そっかあ、あそこに書かれていたのはそういうことだったのかあ!」って読んでて思わないもの。『人間の取り決めでないのにそれが制度と呼ばれるのは、取り決めによるあらゆる制度の根底にそれが存在し、諸制度の原型ともいえる姿を示しているからである。いわばそれは原制度なのである』(296ページ)って、書いてあるんだけど、これからしてよくわからない。その前にはメタファーというか、「こんな感じ」って説明がかかれてはいるんだけど、「えっ?どんな感じよ?」って思うもの。

 著者はすぐに「これを〜と呼ぼう」っていって新語を導入するし(かなりたくさん!)、元のウィトゲンシュタインからして論理の飛躍があるので、何がなにやら・・・。最後まで読んでみたものの、

『こうしてウィトゲンシュタインはその長い思考の旅の果てに、言語の根底としての「私」、魂を持った「私」という存在を見出したのである(P.417)』

って箇所を読み終えたときに、どっと疲れがでました。ちなみに、『魂を持った「私」』というのは著者が導入した呼び名なんだけど、これが何かを追っていくと、『絶対的「私」』だとか、『私的論理』だとか、『超越言明』だとかいうオリジナルの導入語が顔を出すんです。そういうの必要かな?疑問を感じざるをえません。

 一言言っておきたいのは、著者はウィトゲンシュタインの思想、その全てに納得している、そのような人であるというわけではありませんし、彼の「ファン」でも「信者」でもなんでもないんです。ウィトの神秘主義とか批判するべき点は批判してます。その点はたいへん勉強になったし、頷くところも多かった。・・・のですけど、上で挙げた様々な要因が重なり、かなり大味な著作になってしまった感は否めないのが残念です。あと、大半はウィトゲンシュタインが悪いんじゃないかって思います。特に死亡する直前の遺稿とか、これだけで解釈を厳密に決定するのは、神業ですよ。

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 というわけで、中身についてほとんど何も言えないという最悪な書評になってしまいました。誰か読んだ方がいらっしゃったら、内容について教えてください。新書なのに、これ、かなり上級者向けの著作だと思う。

 詳しく知らない読者のために、その「気が狂いそうになる」ウィトゲンシュタインに独特の事情について説明しよう。ウィトゲンシュタインというのは20世紀初頭から中盤にかけて大活躍した、もっとも有名な哲学者の一人で、いまなお現代の哲学者に様々なインスピレーションを与えている、とんでもなく影響力のある人なんですが・・・この人、その独特の著述スタイルでもまた有名でして。彼は毎日、哲学という「仕事」をするんですけど、その成果を自分のノートにアフォリズムみたいな形式で書き付けていくんですね。これがまたシンプルなんだけど難解なんですよ。ちょっと例を挙げましょうか。

自殺が許される場合は、全てが許される。
何かが許されない場合には、自殺は許されない。
このことは倫理の本質に光を投じている。というのも、自殺はいわば基本的な罪だからである。(『草稿』P.288、「こう考えた」からの孫引き)

 ここにある単語で知らないものはないと思うけど、言ってることこれだけじゃサッパリでしょ?だから、前後を追わなきゃいけないんだけど、彼の著作スタイルはそうやってシコシコ仕事して溜まったものを、こうハサミでチョキチョキ、ノリでペタペタする感じで(イメージです)編集していって、それにいろいろ足したり削ったりで、できあがったものを発表する、ってものなんですよ。並べ替えるの。だから、著作だけみてもチンプンカンプンなところも当然でてくるわけ。

 生前に発表された著作は『論理哲学論考』って本だけなんで、一冊しかないから簡単だろと思うかもしれませんが、この本にしても一個一個の文は短いくせに、それに独自のナンバリングがしてあって、階層的に並んでる・・・てなシロモノで、これだけでもかなりへこたれそうになるんだけれど、彼が残した遺稿は膨大な量あるんです。しかも、そのどれもが彼独自の著述スタイルでなんですよ。これを文献学的に読んでいこうってのは、まさしく狂気の沙汰。

 でも、このねえ、ウィトゲン節がまたかっこいいんですよ。しびれるというか、ひきつけられずにはいられないんですよ。彼の「ファン」や「信者」が多いのにも、(気持ち悪いけど)納得する感じ。

 ちなみにぼくは高校生のときにウィトゲンシュタインの「哲学探究」を読んで、そのカッコイイスタイルに完全に陶酔、しったかぶりを決め込んだものでした。今はその反動で直視できないです。

 あ、そうそう誤字発見しました。298ページの「水本雅春」って「水本正春」さんじゃありませんでしたっけ?

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(後日談)
 大学のT教官から「書評見たぞ」と言われました。で、感想を聞いてみたところ「モリはつまんないと書いてたけど、オレはなかなかいいこと言ってると思ったぞ」と言われました。やはり読者の方が悪かったのかもしんない。もう一人のS教官は「書評読んで本読みたくねえなーって思って・・・で、読んでないです」とのこと。うっ!全く逆だ(笑)。



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