Realism and Truth:2nd Edition  Michael Devitt(Princeton U.P.・1997)




 オーストラリアの哲学者、マイケル・デヴィットの主著。「現行の常識(common-sense)と科学が認めている物理的タイプのほとんどのもの、そのトークンは客観的に、心的なものから独立に、存在する」という実在論(realism)のテーゼと、真理の対応説の擁護を目指す。

 パート1の『イントロダクション』では、「実在論の問題を、認識的な問題、意味論的な問題の前に置くべし」「実在論のメタフィジカルな(存在論的な)問題を意味論の問題から区別するべし」など5つの格言が立てられる。パート2の『提言』では、パート1で立てられた5つの格言にしたがって、リアリズムとは何か?真理とは何か?真理は実在論とどう関係しているのか?といった問いに答え、実在論、真理の対応説を擁護する。パート3の『論争』では、パート2での議論を踏まえ、ダメット、パトナム、グッドマン、ローティなどのアンチリアリストに対する反論を展開する。パート4が「結論」・・・というのが本書のおおよその構成である。

 真理の対応説の話については今回は省略(またややこしいから)。ここで問題にしたいのは彼の実在論擁護の議論だ。

T
 デヴィットのリアリズム擁護の議論は以下のようなものだ。まず、形而上学の教義と意味論の教義/認識論の教義とを区別し、これらは互いに独立のテーゼであることを示す。つまり、意味論の教義は、形而上学の教義の構成要素(the constitutive)などではないし、その逆も成り立たないというわけだ。互いの教義の間の関係は、そうした一方が他方を構成要素とするといった関係なのではなく、一方が他方の証拠(the evidential)となっているような関係であるという。デヴィットは一方の教義から他方の教義へのアプリオリな論証は認めない(というより、アプリオリな論証は一切認めていない様子だ)。彼によれば何を根拠にして何をもっともらしいとするかが問題だということである。、したがって、真理の対応説をとらなければ、それは実在論とは言えないとするパトナムのような立場や、意味論に課される要請から、反実在論を導き出すダメットのような立場は、二つの教義を混同し、アプリオリな議論を用いて形而上学上のテーゼを導き出している点で誤っていることになる。

 デヴィットは、こうしてまず意味論とメタフィジックス、認識論とメタフィジックスを互いに独立のテーゼとして切り離す。そうすると、これは一方が他方の証拠になるような関係なのだから、「何を何の証拠とするべきか」が今度は問題になる。そしてデヴィットに言わせれば、パトナムやダメットのように意味論や認識論を証拠にして形而上学上のテーゼを導き出すのは本末転倒であり、これは「意味論や認識論という荷車に、存在論という馬車を引かせようとする」ようなものだ、という(p.4 p.232)。議論を始めるための適切な場所はメタフィジックスだと彼は主張する。

 なぜメタフィジックスがスタート地点であるべきなのか。それは自然主義を採用することによって正当化される。(方法論的)自然主義=自然化された認識論に立てば、私たちが持っている信念の中で一番しっかりしているように見える信念群を証拠として、比較的安定していない信念を、経験・理論に適合するように改訂していくべきだということになる。では、一番安定している信念群とは何だろうか。それは私たちの理論なり知覚から独立に、客観的に、木があって、水があって、月があって・・・という常識的な信念や、科学の中でも最も成功している理論に含まれる信念であるだろう。つまり、こうした存在論的な信念群をこそ、探究のベースにするべきであって、そのベースとなる信念は実在論のそれであるということになる。

 反実在論に対する反論も同じようになされる。自然主義が正しいとしよう。そうすると、あるべきアンチ実在論は自然主義の観点からなされるほかない。しかしそうしたアンチ実在論は説得力にかけたものにならざるをえない。自然主義を受け入れたということは、懐疑論的な認識論の問題設定を引き受けなくともよいということである。このとき一体なぜ私たちの理論はセンスデータについてのものであるとか、「庭にカラスがいる」といった言明は「まるで庭にカラスがいるようである」などといったことを主張するものであると考える必要があるだろうか。端的に庭にカラスがいるのであり、世界はそのようになっているのだ。『要約すると、自然化された認識論に賛同し、ひとたび懐疑論的問題設定が廃棄されるなら、実在論への反論はすべての説得力を欠くことになるのである』(p.80)。デヴィットの実在論擁護は、このように自然主義とコモンセンスに基づいた議論である。

U
 実在論とは、諸対象は私たちの心や記述に依存せず、客観的に存在するという主張だ。実在論が主張する通り、世界はそこに備え付け(furniture)の構造を持っているとしよう。このとき、私たちの認識上のゴールはそうした構造を認識することだということになるだろう。しかし、この図式では私たちの認識がゴールに近づいたかどうかを原理的に知りえない。一体どのようにして私たちは理論から離れた世界そのものと理論とを突き合わせることができるのか、全くわからないからだ。

 この問題は「どうしたら私たちの知識を絶対確実なものとして基礎付けることができるか」という伝統的認識論の問題とは違う。絶対確実な正当化がなされたものこそが知識である・・・そう考えなければ、つまり知識であるために必要な正当化の基準を下げるのであれば、懐疑論を恐れる必要はないことになるだろう。そして、これが方法論的自然主義=自然化された認識論が主張する伝統的認識論の拒否だ。しかしここでのポイントは、デヴィットが主張するように、自然主義とコモンセンスから導き出されるのが「心から独立の世界は存在する」という主張であるならば、「正当化ということが何をすることなのかが全くわからなくなる」ということである。原理的に理論がゴールに近づいたかどうかさえ、この図式においてはチェックすることができない。そんな図式を持つならば、絶対確実な知識どころか、正当化というのが一体何をすることなのか、理解不能になってしまうのだ。

 しかし、デヴィットは「私たちの心と私たちにはアクセス不可能な世界」というこの図式を拒否する。世界は心から独立であるが、アクセス可能なのである。これは一体どういうことなのだろう。彼は別の論文で以下のように述べている。

 このような実在論の見解(註;アクセス不可能な実在を信じることが実在論であるという見解)の後ろには何が控えているのだろう?答えははっきりしている。懐疑論の挑戦にいたるデカルト主義的描像だ。この描像に従えば、私たちは、亀裂から、我々の心の劇場に閉じ込められて、センスデータと外在的世界との間を架橋しようとしながら、理論を作っていくことになる。しかし、私たちは認識論や意味論におけるそのような亀裂からスタートしているのではない。私たちは物理学、生物学などにおいてしっかりと確立された理論を使うことができる――私たちはそうした理論が措定する実体や関係を既に使っている。・・・略・・・

 ・・・略・・・自然主義的な観点から見れば、我々の心と実在の間の関係は、本質的にその他の事物の間の関係と同様に、アクセス不可能なものではない。我々の体の外へと飛び出さなくとも、例えばマイケルとスコッティの間の諸関係についての十分な土台を持った理論を持つことができる。同じように、私たちはマイケルやスコッティに対する我々の認識的、意味論的な諸関係についての、十分な土台を持った理論を持つことができるのである。
(Devitt 1999,)

 デヴィットに言わせれば、理論と世界とを突き合わせることは、仲本工事のエレキギターといかりや長介のウッドベースとの突き合わせ、その相違点を見て取ることと本質的に同じなのだということになる。確かに世界と理論との関係をそうした視点から研究する試みはある。自然主義者が提唱する認識改善運動としての認識論がそれだ。これは有意義な試みだし、私たちの認知活動や理論構築活動を豊かにもしてくれるだろう(私はフェミニズムエピステモロジーをこの線に沿って追究してみるのも有意義なのではないかとさえ考えている)。

 しかし、こうした探究が可能だし有意義であるからといって、心とそれを離れた世界という図式について考える必要がなくなるということにはならない。何が世界に存在するのかという問題、私たちの理論が作ったモノと世界に最初からあるモノの関係はどうなっているのかという問題、つまりはメタフィジックスを考えるならば、これだけで心と世界という図式をあっさり廃棄できるとは思えないのだ。

 デヴィットの実在論擁護に納得がいかないのはこの点だ。すなわち、彼は伝統的認識論の問題枠組み―私たちが知ることができるのはセンスデータだけなのに、外的世界について私たちはどのようにして絶対確実な知識を得ることができるのかという問題枠組み―と、私たちが勝手に世界に押し付ける(impose)ものと世界に備え付けのものとの区別はどこでつけられるのか(何が世界にあるもので、何が私たちが作ったものなのか)というメタフィジックスの問題枠組みとを、あまりにもナイーヴに同一視してしまうのだ。前者の問いを退けたならば、心とそれを離れた世界という描像を廃棄するべきであり、それが廃棄されるならば反実在論はお話にならないと彼は論じる。しかし、心とそれを離れた世界という図式が問題になるのは伝統的認識論においてだけではない。メタフィジックスにおいても然りなのだ。だとすると一方の問題を片付けただけで、この図式自体を廃棄できる、廃棄できるのだから実在論は正しい・・・という主張は本末転倒だろう。

 デヴィットはmetaphysics firstという格率を掲げるが、自分が提案した格率とは裏腹に、彼はメタフィジックスから探究を始めているわけではない。彼が最初に、そしてもっとも熱心に取り組むのは実は認識論なのであり、メタフィジックスに関しては「おおわくとしては常識通り」という、なんとも陳腐な話でお茶を濁すだけなのだ。

引用文献
Devitt, M.(1999),"A Naturalistic Defence of Realism", Steven D. Hales, ed. Metaphysics: Contemporary Readings, Wadsworth Publishing Company, pp.90-103

http://web.gc.cuny.edu/Philosophy/devitt/NATURA1.DOCを使いました。元のテキストは手に入らず。引用のページ数はダウンロードしたヤツなんでつけられないです。

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 英語は比較的簡単なもののようだけど、それでも哲学書。結局半分ほど読むのに一月以上かかりっきりになってしまった。内容もちゃんと理解できているか不安だけど、とりあえず何か書いておかなきゃなあってことで、挑戦してみました。書いてる間にどんどん頭の中がこんがらがってきちゃって、整理して提示するところまで行けなかった。残念。一大学生には荷が重いです。

 途中引用した論文の日本語訳もわかんないところ多くて困りました。訳って難しい!頭の中でおおよそどういうことを言っているのかが理解できても(つもり?)、完全な論理的構造、文法的構造を把握する・・・というところまで行けてない。この点も要修行ですな。反省ばっかだよ。本書はなんというか、もう「古典」なんでしょうね。アンソロジーや他の文献を見てても、ほとんど必ずといっていいほど、リファレンスされるし、出たのももう10年以上前だし。

 いやあ、最初に読んだときに「メタフィジックス言うわりに、認識論の話ばっかじゃねえか!」って思ったんだけど、うまく書けなくて何度もリライト。特に、パトナムと対立しているようでいてなんかイマイチ噛合ってないのが、なんとも掴みにくくて。だってパトナムはアクセス不可能な世界について語る実在論の主張は間違っていると言ってるのに、デヴィットは世界はアクセス可能であり、それは実在すると語る実在論は正しいって言ってるんだもん。デヴィットはコンストラクティビストなんじゃないの?と思うことしばしば。「おおかた私たちが受け入れている通りに対象は実在する」というのはなんとも微妙な言い回しだと。いろいろ混乱してたんだけど、シノさんと飲み話をしているうちに、だいぶスッキリしてきました。

 いろんな論文から推察するに、戸田山和久氏のような研究者も、こうしたリアリズムをとっているように思えます。「存在者としての理論を世界の中に置く視点」とも言ってたような記憶がある(科哲の論文集だったと思う)。そもそも、物理主義者にとっては、そうした物理主義の世界観をあらかじめ受け入れてしまってるわけだから、「世界そのものは概念体系から独立に存在するのかどうか」なんて問題にならない。最初に世界というものを物理主義的世界観のもとに実在論的に置いて、その中に理論、概念というものを置く視点をとることになる。この点物理主義者は非常に楽だけど、物理主義のいう「物理」って何?という問題を考えていくと、おかしなところも出てくる。未来の完成された物理学が措定する対象でもないし、現在のそれでもない。結局、それって何なの?ってことを考えていくと、今の段階では明確に答えられないように思える。さらに物理主義的世界観を採用するのはなぜ?という問いに対しても決定打にかける。そうした問いは妥当ではないことも示さなければならないが、これもあんまり成功していない、本書を読んでそのような印象を受けました。

 そうそう、言っておかねばならぬことが。レビューしておいてなんですが、ぼくこの本を全部読んでいません。パート2までと、パート3のチャプターを2、3、それにパート4を読んだだけです。正直、全部読むのは学部生の卒論として非常に能率が悪いというか、時間的に無理なので、勘弁してください。パート3は対人論法的性格が強い内容だし、関係するところ以外はぶいちゃったのよ。

 それと引用や参考文献のつけ方もわかんなかったんで、ウチの教官でこれ見た方は、ダメな箇所ご指導願います。オンラインのペーパーはどうしたらいいのさ?



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