環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態  ビョルン・ロンボルグ(文藝春秋社・2003)




 「地球環境白書」で有名なレスター・ブラウンやグリーンピース、その他環境団体、メディアによる「このままだと地球はヤバイ!」的言説、その論理のおかしさ、データの読み取りのインチキを指摘し、地球環境は<何もそこまで>悪いわけじゃない、しっかりしたデータに基づいて現実的な対策をこそ立てるべきだと主張する・・・ってのが本書の内容。 重要なポイントは二つ。

 1.まず、この本はそうしたエコ論者に対する文句たれ、突っ込みにだけ終始しているわけじゃなく、各章の相互関連をみながら、「じゃあ、全体としてみて今の世界はどうなってるの?」「一体何が問題なの?」「具体的な対策はどういうものであるべきなの?」って疑問にしっかり答えているってこと。この点を絶対に見逃すべきじゃない。本書を読んで、「エコ運動に対するバックラッシュだ!」とか考える人がいるとするなら、その人はかなり乱暴だと思う。彼の主張に関する批判はなされるべきだし、それは真剣に考慮されなければならないだろうけど、それはしっかりした論理、データに基づくものでなければいけない。しかし、サイエンティフィックアメリカン誌の特集に載っている反論などを見ると、どうも「あいつのいってることは科学じゃない」みたいな感情的反発に収斂しがちなのが残念。

 2.次に、科学と政治の関連に関してもロンボルグのスタンスが一貫してること。この点も重要だ。ロンボルグには「議論は、正確な科学データに基づいてなされるべきであるが、政治とは一応切り離して考えるべきで、政治的な意思決定は民主主義的手段によってなされるべき」という一貫した態度が見られる。対して、反論者の中には「本当であったとしても、大衆がそんなこと理解するわけないし、逆に安心して環境に悪い行動に走ってしまい、事態を悪化させる恐れがある」なんて主張するヤツがいるくらいだ。ぼくは科学と意思決定の問題に関してもロンボルグの主張の方が適切な態度と思う。

 「地球にやさしく」みたいな物言いは、曖昧でテキトーなスローガンに過ぎない。一体何をすれば地球環境問題を解決できるの?それはどれくらいの効果があるの?それに対して、ロンボルグは私たちが少なくともやらなければいけないことを具体的に教えてくれる。『むしろぼくたちは、環境論争において慎重な民主的チェックをがんばって追求するべきなのだ』(P.3)。主権者として、データリテラシーを身に付けること、冷静に議論できるスキルを身に付けることこそが求められている。大変重要な指摘だと思う。でも、当然のことながら、これは科学的なデータこそがすべてってことじゃない。

 科学論研究者の平川秀幸氏は、最近新たな「科学的リスク言説」が、政治的意思決定の場において見られることを指摘している(現代思想2003年7月)。

 今までは近隣の原発や河川事業に反対する住人など、科学的施策に反対する人は「科学について無知だからそう考えるのだ」と見られがちだった。政府もそうした科学に関する「無知」を矯正しさえすれば、市民は納得するだろうってスタンスだった。

 ところが、もんじゅの原子炉事故など、近年「科学の失敗」が明らかになるにつれ、単純に「科学的だから信じられるというのは欺瞞にすぎないのでは?」という意識を以前より、行政も市民も強く持つようになった。もっときっちりその科学技術のリスクを評価し、それに基づいて議論されなければならないという風になってきた、というわけ。

 平川氏は、こうしたリスク言説への移り変わりに着目しながらも、そうした言説の多くにはある傾向が見られることを指摘する。それは「科学的に十分リスク計算して、リスクは少ないとわかっている、かつゲインは大きいのに、その技術を採用するのを恐れる」のは、「リスクってもんがわかってない」という風に見られてしまうという傾向だ、もっといえばリスクってものは科学的に計量できるものに限られるという思考パターン。結局、リスクは科学的に計測できるものにかぎり、それ以外に「もしも・・・」を心配してちゃあ、何もえられないっておもわれちゃうってこと。

 当たり前の話をする。だけどもう一度確認したい。科学は万能じゃない。だけど、とても使えるもんなのだ。

 この二つ、どちらも見逃しちゃいけない。科学は人類に大変な進歩をもたらした。それは、地球環境を人間にとってすみよくしたし、ロンボルグによればキレイにさえした。しかし、だからといって科学がすべてで、それのみが正しいってわけじゃない。科学で評価できないけど、ひょっとしたら・・・ってことだって、本書のいたるところで指摘されているとおり、たくさんあるし、そうした「ひょっとしたら・・・」を心配することが単純に非合理的ってことでもないのは、2にも見られるとおりだと思うのだ。

 過度の科学不信も、科学礼賛にもとらわれない形で、ロンボルグの主張が争われることを期待します。

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 訳者の山形氏によるオンラインサポートページの充実ぶりはすごい。

 数年前、小谷真理が「小谷真理は巽孝之のペンネームである」といわれたことを裁判所に訴えたって話を聞いたけど、被告人、この山形さんだったんだね。知らなかった。彼のページにある裁判関連のテキストもおもしろいぞ。ぼくももうエヴァ論とかどうでもいいし、何でも二項対立だとかいうだけで、悦に入るのは評論家の自己満足だって思ってる。それに好きなこといって何が悪い?事実誤認は謝るけど・・・っていう山形氏のスタンスにも共感するな。

 フェミニズムや民主主義に関する考え方はちと違うし、山形氏のように「なにがおもしろいのか」を伝えるのだけが評論だって考えてるわけじゃないけど、彼の言ってることは基本的にもっともだと思う。

(ぼくは最近のフェミバッシングはフェアじゃないと思うし、彼の民主主義の捉え方は浅いと思ってる。フェミにはダメなヤツが腐るほどいるけど、それは他の思想・学問においてもそうだ。民主主義は多数決のある特定の形態のことだけじゃない)

 あと、計算できないもんを「リスク」って言わないだろーって指摘が、リスク論とかやってる人からあるかもしらんが、その辺は言葉の問題だから。大目に見てくれ。だって、危険とか、不安とか、リスク2とかいったっていいわけで。別にどうでもいいしょ。この文脈では。あ、リスクって言葉知らない人は、いずれ用語集で解説するので、(更新遅いけど)まっといてください。



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